2023年6月にApple社が従来の製品とはかなり異なるデバイス「Apple Vision Pro」というMRヘッドセットを発表しましたが、この新しいデバイスは売れないと考える人も多くいるようです。空間コンピューティングの新しい時代が幕を開けようとしているとも言われる一方で、このデバイスに向けられる冷たい視線の多くはGoogle Glassの失敗に発端があるのかもしれません。
この記事では、イギリスにある教育テクノロジー研究所でMRを使った科学研究の効率化についての研究で博士号取得を目指す筆者が、Apple Vision Proの未来について考えていきます。
Apple Vision Proは売れない?
Apple社が発表した新しい形態のデバイスに興奮した人もいる一方で、売れないとか、欲しくないと思った人も少なくないようです。MRヘッドセットを使った認識科学の研究をしている筆者の立場からすると、この新製品の発表は実はかなり有り難い話で、Appleの参入で空間コンピューティングの新時代が来ると信じる人が増えたことから、実際筆者の所属する研究グループでも研究資金を取りやすくなったという話も耳にします。
でもなぜApple Vision Proは売れないという声をよく聞くのでしょうか?そんな意見の裏にあるいくつかの理由について以下、考えてみたいと思います。
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VRのニッチな市場
Apple Vision ProはMR(複合現実)ヘッドセットですが、現在ヘッドセットというとVR(仮想現実)のヘッドセットで、ゲームに使うものというようなイメージが強いのではないでしょうか?さらに、VRを中心としたMetaverseをめぐるギミックなイメージが、一般人の生活に融合するような用途への想像を阻んでいるように感じます。
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Google Glassの失敗
Apple Vision Proがヘッドセット出したことで、一番に比較対象となったのはGoogle Glassではないでしょうか?2013年に登場し、さまざまな期待や注目を集めたデバイスでしたが、スマートフォンのような一般利用へと広がっていくことはありませんでした。
あれから10年以上の時間が経過した今、テクノロジー環境も市場も変わりつつあります。それでもこのApple社の新しいウェアラブルデバイスを見つめる世間の目は、Googleの失敗のあとにあってか冷静な気がします。
3Dテレビの失敗
Google Glassと同時期に起こったもう一つの失敗に、3Dテレビがあります。筆者は元々テレビ業界で仕事をしていたので、2013年頃3Dテレビが業界の話題だったことを鮮明に記憶しています。スポーツなどさまざまなコンテンツが3Dカメラで撮影され、パブリックビューイングなども行われ、業界の国際会議などでもホットな話題の一つでした。
ところが、結局メインストリームとなったのは4Kの方で、3Dテレビは一般に普及することはありませんでした。Apple Vision Proは3次元での映像化が可能なわけですが、3Dテレビの失敗は、私たちの日常における3Dの必然性を否定したとも言えるように思います。
Google Glassの失敗とApple Vision Pro
着用することのできるスマートデバイスとして、大きな期待を背負って2013年に登場したGoogle Glassですが、多くの課題に直面し、結局のところ消費者に広く普及することはありませんでした。その原因については多くの要素があると見られています、その失敗例をApple Vision Proとの関係において見てみたいと思います。
価格が高い
Google Glassの当初の価格は 1,500 ドルでした。当時はスマートフォンなどにもそのような価格帯のものはまだなく、平均的な消費者には手が届かないという印象が強くありました。その結果ニッチな製品となってユーザー層がそもそも限られてしまうことになったようです。
現在はiPhoneなども1,000ドルを超えるモデルがあり、その価値と機能の必然性が理解されれば、モバイルデバイスに10年前以上のお金を払う準備ができているとも言えます。でも、Apple Vision Proの価格は3,499ドルですから、プライベートのユーザーがいきなり手を出すのには少し敷居が高いですね。
隠し撮りなどに対する懸念
Google Glassには撮影していることを周りに認識されることなく動画を録画したり、写真を撮ったりできるカメラが内蔵されていたため、同意なしに動画や静止画を隠し撮りされるのではないかというプライバシーの侵害に関する懸念という問題も引き起こしました。これにより、バー、レストラン、カジノなどの一部の場所では、録音やプライバシー侵害への懸念から、Google Glassの使用が禁止されていました。
デバイス装着姿の受容性
Google Glassは装着するとちょっと風変わりな人というような印象を与えます。よく言えば未来的に見えるわけですが、とにかく着けていると目立ちます。デバイスを装着している人と関わることに不快に感じたり、社会的に気まずいと感じる人が出てきたこともこのデバイスの失敗の一つの要因でした。
Apple社の宣伝素材を見ていると、あまり公の場での使用は想定していないように見えます。街を歩き回って使うというよりは、自宅やオフィスでパソコンやテレビを使うような感覚で使うのであれば、装着姿は特に問題にならないでしょう。
限定された用途
Googleは当初、ナビゲーションや写真撮影からメッセージ送信や情報検索に至るまで、さまざまな用途のあるデバイスとしてGoogle Glass を発売しました。ところがこのデバイスがスマートフォンなどのように一般人の日常生活に溶け込むことはなく、逆にこのデバイスがなければできないというようなアプリも存在しなかったため、用途が限定的でかつ不可欠ではないものとなってしまったようです。ユーザーは有意義な用途やその価値を見出せなかったわけです。
Apple Vision Proの未来には、やはりどのようなアプリが登場してくるかということが大いに関わってきます。スマートフォンでできるようなことができるのはもちろんのこと、このデバイスが可能にする映像や音声体験にユーザーが価値を見出せるか、さらにはこのデバイスでしかできない不可欠な用途が生まれるかというのも注目すべきポイントです。でも、学会や産業界ではすでにその可能性はかなり追求されつつありますよ。
装着の快適さ
Google Glassは長時間装着するようなデバイスですが、ユーザーは付けていて快適だと感じていたわけではないようです。 デバイスのフィット感やデザインによる不快感などの問題もありました。さらに、Google Glassはバッテリー寿命が短かかったことも、ユーザーの期待に応えられなかった一因です。 長時間の使用は実用的ではなく、よってユーザビリティにも支障がありました。
Apple Vision Proの重さは500g程度と言われていますが、類似のデバイスMicrosoft HoloLens2を使って実験をしていると、デバイスが重くて疲れるという声を聞きます。また、Apple Vision Proのバッテリーの持続時間は2時間程度と言われていますが、これについても決して十分とは言えないように思います。
市場参入のタイミング
2013年のテクノロジー環境は、Google Glassのような製品を受け入れるのに気が熟していなかったと言われています。VR(拡張現実)やウェアラブルテクノロジーの概念はまだ比較的新しく、一般の人にとって馴染みがありませんでした。
それがこの10年の間にどれくらい変わったか、という点にも注目です。Googleは2015年にこのデバイスに関して消費者市場から撤退し、企業や産業向けアプリに重点を移しました。MicrosoftのHoloLensの戦略もこれに似ています。それに対してAppleは消費者市場も視野に入れていますので、消費者市場がどれくらいヘッドセットなどのウェアラブルテクノロジーに対して受容性を拡大したかが、売れるかどうかの鍵にもなってくると思われます。
3Dテレビの失敗とApple Vision Pro
Google Glassと同時期に同様の運命に直面した3Dテクノロジーに3Dテレビがあります。これは家庭用テレビに3次元の視聴体験をもたらすことを目的としたものでしたが、こちらも消費者に広く普及することはありませんでした。
限られたコンテンツ
3Dテレビの主な課題の 1 つは、魅力的なコンテンツの欠如だったと言われています。 一部の映画やスポーツイベントは3Dで公開され、それなりに盛り上がりましたが、3Dコンテンツの入手可能性は従来の2Dコンテンツに比べてかなり限られていました。よって消費者が 3Dテレビへの投資を正当化しにくくなったというわけです。
その点、Apple Vision Proは3Dコンテンツを売りにはしていません。従来の2Dコンテンツをより大きな画面や没入的体験として見せるというスタンスを取っています。
メガネの必要性
3Dテレビの視聴には、3D効果を得るための特殊なメガネが必要でしたが、これも一般普及を阻んだ原因の一つでした。3Dテレビ用のメガネは決して着け心地が良かったわけではなく、高価で、視聴者の人数分必要になります。さらに自宅で3Dメガネを着用するということ自体も、長時間視聴することを考えると不便です。テレビを見ながらスマートフォンで他の作業をするなどといった場合にも適していません。
Apple Vision Proでは、MR(複合現実)の空間で他の作業もする事になります。テレビを見ながら仕事をしたりメッセージを送ったりというのも、全て一つのデバイスでやるという事になるので、3Dテレビのメガネとは少し異なると言えます。
視聴中の不快感
3Dコンテンツの視聴中に不快感や吐き気、目の疲れを経験するという問題があります。これはVRヘッドセットにも言えることで、筆者も実はこの手の不快感に弱いのですが、3Dの仮想空間を作り出す技術が適合的眼球離反運動の不一致(Vergence-accommodation conflict)という現象を作り出してしまう以上避けることのできない現象です。
ただ、このあたりを緩和する技術は進んできているので、期が熟せばより自然な体験をすることもできるようになるはずです。
画質の妥協
コンテンツの3D化に対応するために、多くのメーカーは画質や明るさ、視野角に関して妥協をせざるを得ませんでした。その結果、3Dコンテンツは従来の2Dコンテンツよりも暗く、鮮やかさに欠けて見えることがありました。
この点においてApple Vision Proは画質に妥協はしていないようです。現時点では未発売な訳ですが、プロモーションを見る限り従来のデバイスよりも格段に優れた映像体験をできることを売りにしていることからも、画質に関する魅力は高いように思えます。
標準化の遅れ
3Dテレビにはアクティブシャッターグラスやパッシブグラスなどの競合する3D テクノロジーがあり、必ずしも相互に互換性があるとは限りませんでした。標準化の欠如により消費者は混乱を招き、市場の細分化にもつながったと言えます。
標準化の点でいうと、従来型の静止画や動画は良いのですが、3Dモデルに関してはもう少しスタンダードが整って欲しいなという気がします。objファイルやfbxファイルが、jpegファイルやpngファイルのようにやりとりされるようになっていくのはそう遠くない未来です。
4Kへの移行
3DTVテクノロジーが注目を集め始めたのと同じ頃、より高い解像度やハイダイナミックレンジ(HDR)、スマート TV機能などを備えた4Kテレビへの移行も浮上しました。従来のテレビの視聴形態を変えずに、より良い画質を体験できるテレビが登場した事により、消費者の関心と投資は3D テクノロジーから外れてしまったようです。
そもそもスマートフォンなど、日常生活に不可欠な一部となっている一部のテクノロジーとは異なり、3Dテレビは従来の 2Dのテレビと比べて大きな利点を提供しなかったとも言えます。空間コンピューターはその点においてどこまで透過できるかという事にもなりますが、筆者はこれまでのデバイスではできなかったことができるという価値はVision Proにあると考えています。
Apple Vision Proの未来
空間コンピューターでは、私たちの存在する物理的な3D空間に、3Dと2D両方のものを置くことができます。これはコンテンツの3D化を図ることを目的とした3Dテレビとは根本的に異なり、上記で議論した多くの課題はクリアされているように見えます。
Google Glassの失敗の観点からは、市場のニーズ、社会の期待、ユーザーの快適性との不一致がまだ残りますが、消費者市場の成熟はともかく、空間コンピューターは生産の効率化や科学の発展の促進という面では、社会の期待に答えることのできるものだと言えます。
Apple Vision Proが発売されていない現在全てはまだ机上の空論ですが、筆者もMRの未来を見つめる研究者の卵として、これからの動向にますます注目していきたいと思います。